【002】社会人スタート

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私の実家は個人のクリーニング店で、
私は将来後を継ぐ予定だったので、高校半ばから遊び呆けて何も勉強しなかった。

しかし、卒業時期に母の提案で一度社会人として働くことをすすめられた。

私は、深く考えず自分の家から自転車で通えるメーカーの工場で働くこととなった。

最初の勤務はベルトコンベアーで運ばれる、箱詰めされた製品のテープ貼りだった。

上司から初めて怒られたのもそのテープの貼り方だった。

少しシワになった貼り方をした時だった。
結構な勢いで怒られた。しかし若かりし私は、「こんなのどうでもいいじゃん」半分聞いていなかった。

商人の息子である私は、何らかんらいって世渡り上手であったと思う。
少しずつ信頼を重ね、そのためか、数年後にはそのメーカーの設計部に引き抜かれたのだ。
21歳位の時だった。

かなりの栄転だったと思う。設計部といえば会社の花形だ。
テープの事を叱った上司も、その時は親のように本気で喜んでくれて

「行ってこい!!」と私の肩を押してくれた。涙が出そうだった。

その頃、実家の方だが、1990年代に差し掛かり、
丁度バブルが崩壊して世の中が暗闇に飲み込まれはじめた。

クリーニング店も決して例外ではない。

追い打ちをかけて不景気と共に、形状記憶シャツやドライクリーニング不要等の衣類が開発され、
更に洗剤も良くなっていったため、一気に需要が落ち込んだのだ。

もう、息子を継がせる余裕がある店などなくなっていた。

最初から息子を継がせたところは、
息子の給与も払えず逼迫していると聞いた覚えがある。

運良くこの会社は大きな影響は受けていないので、ここに残ることを決めた。

さて、話は戻るが、

現実はそんなに甘くはなかった。

意気揚々と設計部の門をたたいたが、
設計部の親分たちはそんなに甘くはなかった。

私の上司は特に(私に)厳しかった。。
来る日も来る日も何度も叱られた。
思い出したくない。。

しかし、その理由は数年後にわかったのだ。
私の上司は別の会社に役員待遇で転職することが既に決まっていたようだ。

なので、それまでに自分の知識をできる限り私に伝えようとしてくれたのだろう。

それは優しさだったのだ(いやっ。ウソだ。まじで怖かったから)

そんな上司の転職が現実となった。

今言えるのは、
今の私があるのは、叩き上げで鍛えてくれたこの上司のおかげだったと言うこと。
感謝の気持ちで溢れるばかりだ。

その後社内では、敷かれたレールで自分の立ち位置を守ったが、
それ以上精進しようとしない私のメッキはボロボロと剥がれていった。

結局26歳くらいの時かな?当時の設計部部長に反発して立ち位置がとても悪くなった。

それからは悲しいことに負け犬まっしぐら。
日々平穏であればいいとさえ思い始めた。

私の一番の敗因は電気の知識の無さだった。

大卒理系の集団の中で、高卒文系の私はあまりにも無知なのである。

とても悔しかったが、そのままズルズルと29歳までその会社に留まった。

しかし、このままでは自分が駄目になってしまうと思い、妻に相談して別の道を探した。

次の人生のスタートだった。

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